From 師範代Shinya(新村真也)
(→前回のつづき)
※僕が20才の頃、「アクション俳優になろう!」と思って「俳優養成所」に入った時のストーリーの続きです。
つなぎの仕事としてたまたま選んだ「イトーヨーカドーの服飾売り場の仕事」は、予想外に楽しくなってしまいました。
僕が一番最初に担当した「紳士バッグ売り場」は、もともとあまり動きがなく、全体の売上比率が高くないので、あまり重要視されていませんでした。
でも僕は、そんな紳士バッグ売り場をあれこれいじるのが大好きでした。
「誰からも見向きもされていない売り場に手を入れて、生まれ変わらせる」
という作業が、僕の性格に合っていました。
・棚のホコリをキレイに拭く
・バッグをキレイに並べ直す
・1つ1つのバッグのPOP(広告文)を書いて棚に付ける
・機能性重視のバッグは、広げた状態で中が見えるように飾る
といった作業を毎日していました。
すると、だんだん変化が出てきました。
紳士バッグ売り場の売上高が、ジワジワ上がり始めたのです。
当時のイトーヨーカドーには、自分の担当売り場の売上高をパート社員が1日単位でチェックできる仕組みがありました。(今もあるのかもしれませんが)
事務所のパソコンを使うと「自分の売り場の商品が昨日までに何個売れているのか?」を知ることができます。
これがスゴいモチベーションになるのです!
もともとあまり手入れがされていなかった紳士バッグ売り場を僕が手入れしたことで、分かりやすいぐらいポコン!と売上が上がりました。
僕はすっかりこの仕事の楽しさにハマッてしまいました。
監視されない、自由な世界
僕が高校を卒業して鉄工場で働いていた時には、常に「サボらないか?」を監視されていました。
狭い行動エリアの中で、常に親方の鋭い目線を感じていました。
ちょっとでもボーッとしていたり、作業スピードが遅いと、すかさず親方が僕に近づいてきました。
親方は鬼のような形相で大声で怒鳴ったり、時にはヒザ蹴りを食らわせてくることもありました。(おそらくまだ日本に「パワハラ」という言葉がなかった時代だと思います)
僕はまるで監獄にいるような気分を味わっていました。
でも、社会人1年目だった僕は、「これが社会人として働くということか」と諦めていました。
でも、転職したら世界が一気に広がりました。
イトーヨーカドーでは、鉄工場とすべてが真逆でした。
空調の効いたキレイな職場で、仕事中は「監視の目が一切ない」状態で働けるのが夢のようでした。
出勤してタイムカードをピッとやったら、帰るまでの間に何をするか?はすべて自分で決められました。
誰にも指示されないのです。
これまで「監視されるのが当たり前の世界」で生きてきた僕にとっては、この自由さは驚きでした。
レジ打ち時間でさえも自由
唯一、決められていたのは「レジ打ち時間」でした。
1日の中でみんなで交代しながら「レジ打ちの時間」がスケジュールで決められています。
1回1時間程度で、1日1~2回ぐらいレジ打ち時間があります。
レジ打ちと言っても、僕がいた服飾売り場は、食品スーパーのようにお客さんの行列ができることはありませんでした。
普通は1人ずつやって来るぐらいで、どんなに並んでも、せいぜい2~3人ぐらいまでです。
また、お客さんがいない間はカウンターエリア内にさえいれば、どんな作業をしていても大丈夫です。
僕にとってはレジ打ち時間も「縛られている感」はありませんでした。むしろ自由を感じていました。
個人商店
僕が働いていた売り場では、正社員もパート社員も学生アルバイトも含め、スタッフ全員が独立して動いていました。
それぞれが自分の担当売り場の「個人商店の主」のような感覚です。
誰にも指示されずにみんなが自分で考えて動く姿は、僕にとっては理想に感じました。
自由だからといって、働かずにフラフラしてなまけている人は誰もいませんでした。
今思い返すと、あの自由さが実現できていたのは、
①権限を個人に渡すシステム
②正社員の人達の考え方と人柄
③全員の人間関係の良さ
の3つが揃っていたからだと思います。いくらシステムが自由でも、正社員の人達がパート社員やアルバイトを監視してコントロールしようと思ったら、できるはずです。
また、いくら自由でもスタッフ同士の仲が悪くてギクシャクしていたら、居心地は悪くなるでしょう。
お互いの揚げ足取りのために、監視する環境になっているかもしれません。
そう考えると、やはりあの職場環境は3つの条件が揃って一時的にすごく恵まれた状態になっていたんだと思います。
僕はそんな天国のような職場に身を置いてしまったのです!つなぎの仕事のつもりだったのに!
・・・つづく。
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